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「曽我タケヒロか」 

師匠はその住所をメモして友人の家を出た。 
曽我の住んでいるアパートは市内の外れにあり、僕は師匠を自転車の後ろに乗せてすぐにそこへ向かった。 
アパートはすぐに分かり、表札のないドアをノックしていると、隣の部屋から
無精ひげを生やした男が出てきて、こう言った。 

「引っ越したよ」 


「いつですか」 

ぼりぼりと顎を掻きながら

「四、五日前」

と答える。ここに住んでいたのが、曽我という学生だったことを確認して、
引越し先を知りたいから大家はどこにいるのかと重ねて訊いた。 
すると、その隣人は

「なんか、当日に急に引っ越すからって連絡があって、
敷金のこともあるのに引越し先も言わないで消えた、って大家がぶつぶつ言ってたよ」

と教えてくれた。 

四、五日前か。ちょうど人形の事件があったころだ。その符合に嫌な予感がし始めた。 
礼を言ってそのアパートから出た後、今度はその足で市内のハンコ屋に行った。以前師匠のお遣いに行かされた店だった。 
師匠は店内にズラリとあった三文判の中から『曽我』の判子を選んで買った。安かったが、領収書をしっかりともらっていた。
宛名が「上様」だったことから、これからすることがなんとなく想像できた。 
ハンコ屋を出ると、案の定次の目的地は市役所だった。 
師匠は玄関から市民課の窓口を盗み見て、僕に

「住民票の申請書を一枚とってこい」

と言った。言うとおりにすると、今度は建物の陰で僕にボールペンを突きつけ、
その申請書の「委任状」の欄を書かせた。
もちろん委任者は「曽我タケヒロ」だ。そして買ったばかりの判子をついて、

「ここで待ってろ」

と市民化の窓口へ歩いて行った。 
そのいかにも物慣れた様子に、興信所の調査員らしさを感じて感心していた。なにより、
ポケットから携帯式の朱肉が出てきたことが一番の驚きだった。前にも持っているところを見たことがあったが、
こんなこともあろうかと、いつも持ち歩いているらしい。 
どっぷり浸かっているな、この世界に。 
しかしそれさえ、彼女の持つバイタリティの一面に過ぎないということも感じていた。

しばらく待っていると、浮かない顔をして戻ってきた。
 
「どうでしたか」

と訊くと 

「駄目だ。こっちに住民票自体移してなかった。蒸発の仕方から、
転出届けは出してない可能性が高かったから、住んでたアパートの住民票さえ取れれば、
戸籍と前住所が分かって、色々やりようがあったんだけど」 

師匠はそう言いながら市役所の外へ歩き出す。 

「大家をつかまえて、アパートに越してくる前の住所を訊き出しますか」 

「いや、難しいだろう。住民票を市内に移してないということは、
遠方の実家に住所を置いたままだった可能性が高い。カンだけど、曽我はまだこの街にいる気がする。 
だから実家を探し出してもやつの足取りをたどれるかどうかは怪しいな。ま、逆に実家に帰ってるんだったら、
実害はなさそうだ。とりあえず今すべきことは、最悪の事態を想定して、迅速に動くことだな」 

となると、やっぱり大学と演劇部の連中に訊き込みをするしかないか。 
師匠は忌々しそうに呟いた。 
もし曽我がまだその近辺にいるのなら、それではこちらの動きも筒抜けになってしまう可能性があった。
 
「どうすっかなあ」 

師匠は大げさに頭を両手で掻きながら歩く。 
クーラーの効いていた市役所の中から出ると、熱気が全身に覆いかぶさってきて、息が詰まるようだった。
そして太陽光線が容赦なく肌を刺す。 
しかし、しばらく歩いていると、強い風が吹き付けてきてその熱気が少し散らされた。
相変わらず風が強い。朝からずっと吹き回っている。
 
「昨日からだよ」 

と師匠は言った。風は昨日から吹いているらしい。
そう言えば昨日はほとんど寝て過ごしたので覚えていないが、そうだったかも知れない。 

「そう言えば昨日、友だちが髪の毛の話をしてましたよ」 

僕には、男のくせにやたらと髪の毛を伸ばしている友人がいた。高校時代からずっと伸ばしているという
その髪は腰に届くほどもあって、周囲の女性からは気持ち悪がられていた。 
本人は女性以上に髪には気を使っているのだが、
長いというだけで不潔そうに見えるのだろう。だが大学にはそういう髪の長い男は結構多かった。
いわゆるオタクのファッションの一類型だったのだろう。

その友人が昨日、自分の部屋にガールフレンドを呼んだのだが、
あるものを見つけられて詰め寄られたのだという。 
どうせ他のオンナを部屋に上げていた痕跡を見つけられたという、
痴話喧嘩の話だろうと思ってその電話を聞いていると、案の定

「髪の毛が部屋に落ちてるのを見つけられたんだ」

と言う。 
ふうん、と面白くもなく相槌を打っていると彼は続けた。 

「それで詰め寄られたんだ。この短い髪の毛、誰のよ? って」 

少し噴いた。なるほど、そういうオチか。彼女も髪が長いのだろう。 
市役所の前の通りを歩きながらそんな話をすると、師匠はさほど面白くもなさそうに

「面白いな」

と言って、心ここにあらずといった様子でまだ悩んでいた。 
僕は溜め息をついて、歩きながら自転車のハンドルを握り直す。またじわじわと熱さが増してきた。
早く自転車にまたがってスピードを出したかった。 
そう思っていると、また風が吹いてきてその風圧を仮想体験させてくれた。 

「うっ」 

いきなり顔になにがか絡み付いてきた。虫とか、何だか分からないものが顔にあたったときは、
口に入ったわけではなくても一瞬息が詰まる。そのときもそんな感じだった。 

なんだ。 

顔に張り付いたものを指で摘んだ瞬間、得体の知れない嫌悪感に襲われた。
 
髪の毛だった。 

誰の? とっさに隣の師匠の横顔を見たが、長さが違う。
そしてそのとき風は師匠の方からではなく、全然違う方向から吹いていた。 

髪の毛。 

髪の毛だ。髪の毛が風に乗って流されてきた。 
立ち止まった僕を、師匠が怪訝そうに振り返る。そして僕の手に握られたそれを見ると、
見る見る表情が険しくなる。 

「よこせ」 

僕の手から奪いとった髪の毛に顔を近づけて凝視する。それからゆっくりと顔を上げ、水平に首を回して周囲の景色を眺めた。 
風がまた強くなった。 
心臓がドクドクと鳴る。偶然だろう。偶然。

そのとき、近くを歩いていた女子高生たちが悲鳴を上げた。 

「やだぁ。なにこれぇ」 

その中の一人が、顔に吹き付けた風に悪態をついている。いや、風に、ではない。その指にはなにかが摘まれている。
 
「なにこれ。髪の毛?」 

「気持ち悪ぅい」 

口々にそんなことを言いながら女子高生たちは通り過ぎていった。 
髪。 
偶然…… ではないのか。 

師匠はいきなり自分の服の表面をまさぐり始めた。猿が毛づくろいをしているような格好だ。
ホットパンツから飛び出している足が妙に艶かしかった。
しかしすぐにその動きは止まり、腰のあたりについていたなにかを慎重に摘み上げる。 
そして僕を見た。その指には茶色の髪の毛が掴まれている。 
反対の手の指にはさっき僕の顔に張り付いた髪の毛。色は黒だ。 
長さが違う。色も。どちらも師匠とも、僕の髪の毛とも明らかに違っていた。 

「お前、その友だちの話」 

「え」 

「短い髪の毛誰のよ、って怒られた友だちだよ」 

「はい」 

「本当に浮気をしていたのか」 

その言葉にハッとした。浮気なんかしていないはずだ。今の彼女を見つけただけでも奇跡のような男だったから。 
その部屋に、彼女のでも、自分のでもない短い髪の毛。 
普通に考えれば誰か他の、男の友人が遊びにきて落としたのだろうと思うところだ。
しかし、そう連想せずにいきなり詰め寄られたということは、なにか理由があるはずだ。 
例えば、前の日に二人で部屋の掃除をしたばかりで、友人は誰も訪ねては来ていないはずだったとか。 
だったらその髪の毛は、どこから? 
僕は思わず自分の服を見た。隅から隅まで。そして服の表面に絡みついた髪の毛を見つけてしまった。それも三本も。 
ぞわぞわと皮膚が泡立つ。

どれも同じ人間の髪の毛とは思えなかった。
よく観察すると長さや太さ、色合いがすべて違う。こうして、友人の服についた誰かの髪の毛が、
部屋の中に落ちたのか。 
そう言えば、今日自分の部屋を出たときから顔になにかほこりのようなものが当たって息が詰まることが何度かあった。
あれはもしかして髪の毛だったのかも知れない。すべて。 
空は晴れ渡っていて、ぽつぽつと浮かんだ雲はどれもまったく動いていないように見えた。上空は風がないのだろうか。 
師匠は歩道の真ん中で風を見ようとするように首を突き出して目を見開いた。 
そしてしばらくそのままの格好でいたかと思うと、前を見たまま口を開く。 

「髪が、混ざっているぞ」 

風の中に。 
そう言って、なんとも言えない笑みを浮かべた。 

「小物だと思ったけど、これは凄いな。いったいどういうことだ」 

師匠のその言葉を聞いて、そこに含まれた意味にショックを受ける。 

「これが、人の仕業だって言うんですか」 

街の中に吹く風に、髪の毛が混ざっているのが、誰かの仕業だと。 
僕は頬に吹き付ける風に嫌悪感を覚えて後ずさったが、風は逃げ場なくどこからも吹いていた。
その目に見えない空気の流れに乗って、無数の誰かの髪の毛が宙を舞っていることを想像し、吐き気をもよおす。 

「床屋の…… ゴミ箱が風で倒れて、そのままゴミ袋いっぱいの髪の毛が風に飛ばされたんじゃないないですか」 

無理に軽口を叩いたが、師匠は首を振る。 

「見ろ」 

摘んだままの髪の毛を二本とも僕につきつける。よく見ると、どちらにも毛根がついていた。
慌てて自分の身体についていたさっきの髪の毛も確認するが、そのすべてに毛根がついている。 
ハサミで切られたものではなく、明らかに抜けた毛だ。 
確かに通行人の髪の毛が自然に抜け落ちることはあるだろう。それが風に流されてくることも。
だが、問題なのはその頻度だった。 
師匠が、近くにあった喫茶店の看板に近づいて指をさす。そこには何本かの髪の毛が張り付いて、
吹き付ける風に小刻みに揺れていた。

「行くぞ」 

師匠が僕の自転車の後ろに勢いよく飛び乗った。僕はすぐにこぎ出す。 
それから二人で、街なかをひたすら観察して回った。だが、その行く先々で風は吹き、その風の中には髪の毛が混ざっていた。 
僕は自転車をこぎながら、混乱していた。今起こっていることが信じられなかった。
現実感がない。
いつの間にか別の世界に足を踏み入れたようだった。風は広範囲で無軌道に吹き荒れ、
市内の中心部のいたるところで髪の毛が一緒に流されているのを確認した。 
目の前で風に煽られ、髪の毛を手で押さえる女性を見て、師匠は言った。
 
「この髪の毛、どこからともなく飛んできてるわけじゃないな」 

通行人の髪が強風に撫でられ、そして抜け落ちた髪がそのまま風に捕らわれているのだ。 
師匠は被っていたキャップの中に自分の髪の毛を押し込み、僕には近くの古着屋で季節外れのニット帽を買ってくれた。
もちろん領収書をもらっていたが。 
師匠に頭からすっぽりとニット帽を被せられ、

「暑いです」

と文句を垂れると

「もう遅いかも知れんがな、顔面を砕かれたくなかったら我慢しろ」

と言われた。顔面を? 
まるであの人形だ。ゾクゾクしながらされるがままになる。 

「よし」

と僕の頭のてっぺんを叩くと、師匠は顔を引き締めた。 

「追うぞ」 

「え?」

と訊き返すと、

「決まってるだろ、髪を、集めてるヤツだ」 

何を言っているんだ。 
呆れたように師匠の顔を見ながら、それでも僕は自分の心の奥底では彼女が
そう言い出すのを待っていたことに気がついていた。 

「曽我ですか」 

「タイミングが合いすぎている。わたしの勘でも、これは偶然じゃない」 

想い人である浮田さんの髪を手に入れ損ねた男が、騙されたことに怒り狂い、無差別に人の髪の毛をかき集めている、
そんな狂気の姿が頭に浮かんだ。浮田さんは家に閉じこもっていて正解だったのだろう。 
しかし、丑の刻参りだけならまだしも、こんなありえない凄まじい現象を、ただの大学生が起こしているというのか。

「いや、分からん。曽我は浮田の髪の毛を手に入れたが、それが誰か他のやつの手に渡った可能性はある」 

「他のやつって?」 

「……」 

師匠は少し考えるそぶりを見せて、慎重な口調で答えた。 

「どうもこのあいだから、こんなことが多い気がする」 

このあいだって。 
口の中でその言葉を反芻し、自分でも思い当たる。
師匠が少し前に体験したという、街中を巻き込んだ異変のことだ。僕も妙な事件が続くなあ、と思ってはいたが
その真相にたどり着こうなどとは考えつかなかった。その後も師匠にはそのことでしつこく詰られていた。 
こういう大規模な怪現象が立て続くことに、師匠なりの警戒感を覚えているらしい。
その怪現象のベールの向こうに、なにか恐ろしいものの影を感じ取っているかのようだった。 

「どうやって追うんです」 

少し上ずりながら僕がそう問うと、師匠は自分の人差し指をひと舐めし、唾のついたその指先を風に晒した。
風向きを知るためにする動作だ。
 
「風を追う」 

風が人々の髪の毛を巻き込みながら、街中を駆け回り、そしてその行き着く先がどこかにあると言っているのだ。 

「でもこんなにバラバラに吹いてるのに」 

「バラバラじゃない。確かに東西南北、どの方角からも風が吹いている。
でも一つの場所では必ず同じ向きに風が吹いている」 

師匠のその言葉に、思わず

「あっ」

と驚かされた。言われてみると確かにそうだったかも知れない。 

「迷路みたいに入り組んでいても、目に見えない風の道があるんだ」 

そうじゃなきゃ、髪を集められない。 
そう言って師匠は僕の自転車の後輪に足を乗せ、行き先を示した。つまり、風が向かう方向だ。 
ゾクゾクと背筋になにかが走った。恐怖ではない。感心でもない。畏敬という言葉が近いのか。
この人は、こんなわけのわからない出来事の根源に、たどり着いてしまうのだろうか。 
力強く肩を掴まれ、

「さあ行け」

という言葉が僕の背中を叩いた。 
それから僕らは、師匠の感じ取る風の向かう先を追い続けた。 
それは本当の意味で、目に見えない迷路だった。

「あっち」

「こっち」

と師匠が指さす先にひたすら自転車のハンドルを向け続けたが、
駅前の大通りを通ったかと思うと、急に繁華街を外れて住宅街の中をぐるぐると回り続けたりした。 

かと思うと川沿いの緑道を抜け、国道に入って延々と直進したりと、
法則もなにもなく、その先に終わりがあるのかまったく見えなかった。 
そしてまた風に導かれるままに繁華街に戻ってきて、いい加減息が上がってきた僕が休憩しましょうと
進言しようとしたとき、師匠が短く

「止まれ」

と言った。 
そして後輪から降り、一人で歩き出した。 
大通りからは一本裏に入った、レンガ舗装された商店街の一角だった。師匠の背中を目で追うと、
その肩越しに二人の人間の姿があった。 
女性だ。二人ともセーラー服を着ている。腕時計を見ると、いつの間にか高校生の下校の時間を過ぎていた。 
二人は並んで立ち止まったまま、師匠をじっと見ている。二人ともかなり背が高く、目立つ風貌をしていた。 
師匠が

「よう」

と気安げに声をかけると、髪の長い方が口を開いた。 

「どうも」 

少しとまどっているような様子だった。それにまったく頓着せず、師匠は親しげに語りかける。 

「あの夜以来か。いや、一度会ったかな。元気か?」 

「ええまあ」 

短く返して、困ったような顔をする。 
僕もそちらに近づいていった。 

「この道にいるってことは、おまえも気づいたんだな」 

師匠の言葉にその子はハッとした表情を見せた。 

「危ないから、子どもは家で勉強してな」 

やんわりと諭すような言葉だったが、見るからに気の強そうな目つきをしている
その女子高生が反発せずに聞き入れるとは思えなかった。 
そしてその子が口を開きかけたとき、 

「どなた」 

と、じっと聞いていた髪の短い方の子が、一歩前に出た。それは一瞬、髪の長い方を庇う様な姿に映った
。薄っすらと笑みを浮かべた目が値踏みするように師匠に向けられる。 
師匠がなにか言おうとして、ふと口を閉ざした。
そしてなにかに気づいたような顔をしたかと思うと、すぐに笑い出した。