★ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログ★

ビートルズを誰にでも分かりやすく解説するブログです。メンバーの生い立ちから解散に至るまでの様々なエピソードを交えながら、彼らがいかに偉大な存在であるかについてご紹介します。

ジョンの曲が初めてレコードになった(237)

1 オーディションを審査したパーンズら

(235)でご紹介したビリー・フューリーのオーディションの時に撮影された写真で、上の写真は、遅刻してきたムーアがハッチンソンと交代してドラムを叩いています。そして、シルヴァー・ビートルズの演奏を審査員であるクリフ・ロバーツ、ビリー・フューリー、ラリー・パーンズ(写真左から)が審査しています。

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一様に厳しい表情ですね(^_^;)ロックンロールの演奏を聴いているんですから、普通ならノリノリになっているはずですが、これでは結果は目に見えていたでしょう。

そして、ジョンは、この時にちゃっかりフューリーからサインをもらっています。ジョンの頭がチラッと写ってるでしょ?フューリーも「え?オレにサインしてくれって?」と、ちょっと戸惑った表情をしています。

オーディションを受けに来たミュージシャンが審査員にサインをねだっちゃダメでしょ。まだ、こんなところは、プロ意識が欠けていたと言わざるを得ません。

この時期が彼らにとっては一番ピンチで、バンドとして存続するかどうかの瀬戸際でした。ドラマーはいない、ベーシストはほぼ素人、おまけに全員が学業を抱えていて、プロへの転向は家族に反対されていたという状況でした。

 

2 芸名を名乗ったビートルズ

ビートルズがメジャーデビューした時は、リンゴを除いて全員が本名を使いました。しかし、スコットランド巡業の時は芸名を名乗ったんです。

ポールの回想によれば「オレたちは、プロになったんだから芸名をつけよう。」と考えたということですが、あるいは、まだ学生だっただけに、本名を名乗って学校にそれが知られると、最悪、退学になってしまうことを懸念したのかもしれません。

ジョージは、「カール・ハリスン」と名乗りました。彼が大好きなロカビリーの大御所、カール・パーキンスにあやかったんです。スチュアートは、「ニコラ・ド・スタール」というロシアの画家にとても憧れていたので、「スチュアート・ド・スタール」と名乗りました。

トミー・ムーアは、「トーマス・ムーア」を名乗りました。でも、これってむしろ本名ですけどね(^_^;)トミーがニックネームですから。

ポールは、フランス人っぽく「ポール・ラモーン」と名乗りました。彼は、ずっとフランスに憧れていたんですね。後に「ミッシェル」という名曲を作りますが、これも言葉の通じないフランス人女性に恋焦がれているという心情を歌ったものです。

面白いことにこのラモーンという名前は、後にビートルズに憧れた「ラモーンズ」がそのまま拝借してバンド名にしました。ほんの一時期に使っただけの芸名にあやかるとは、よほど彼らもビートルズが好きだったのでしょう。

ジョンはというと、ジョン・レノンで通したと本人は語っています。自分の名前は魅力があると思っていて、これ以上素晴らしい名前はないと考えていたとのことです。

しかし、ポールは、ジョンも芸名を使っていたと語っています。では、どちらの主張が事実か。それは下の写真を見れば一目瞭然です。

どう見ても「Johnny」とサインしています。崩してサインしてますが、最後の文字は明らかに「y」ですから。どうやら、これに関しては、ポールの記憶の方が正しかったようですね(笑)

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3 いよいよツアーが開幕!

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1960年5月20日、いよいよスコットランドツアーが開幕しました。これは、スコットランドの北東地域で行われた初めてのツアーでした。クラックマナンシャーにあるアロア・タウンホールです。

「ビート・バラード・ショー」として宣伝されましたが、これも変なネーミングですね。ビートの効いた曲なのかバラードなのか、一体どっちなんだいって印象を受けます。

 

開演時間は、午後9時30分から午前1時30分と日付をまたいでいますが、この時代はこれでも普通だったんです。何しろまだ他に娯楽が少ない時代でしたから、ダンスホールでバンドが演奏する音楽に合わせて踊るのが人々にとっての楽しみでした。入場料は午後10時までであれば4シリング(現代の日本円で約2,400円?)、それ以降は5シリング(約3,000円?)でした。

ツアーのセットリストは全日程を通して同じで、バディ・ホリーの「It Doesn't Matter Anymore」「Raining In My Heart」、エルヴィス・プレスリーの「I Need Your Love Tonight」、リッキー・ネルソンの「Poor Little Fool」クラレンス・フロッグマン・ヘンリーの「I Don't Know Why I Love You But I Do」、エディ・コクランの「Come On Everybody」、ジム・リーヴスの「He'll Have To Go」でした。


Buddy Holly - It Doesn't Matter Anymore - 1959.

プレスリーの曲はロックンロール、コクランの曲はロカビリーでしたが、それ以外はスローテンポかミドルテンポの曲でした。ホリーにはもっとアップテンポな曲も色々あったのですが、やはりジェントルは、バラードが得意な歌手ですから、それらは選ばなかったのでしょう。

残念ながら、当時の音源は残されていませんが、初日の演奏はかなり酷かったようです。ジェントルは、ステージに上がる僅か30分前に初めてビートルズと会い、20分だけリハーサルしました。これでは良い演奏などできるはずもありません。いくら新人とはいえ酷い扱いですが、この時代は、別に珍しいことではありませんでした。

ジェントルは、ジョンとポールの衣装に合うように、黒いシャツをジョージにプレゼントしてくれました。全員がヨレヨレの衣装でしたが、特にジョージのそれがみすぼらしかったのでしょう。ジョージも当時を回想して「僕らはみすぼらしくて、みっともない最悪なグループだった。アンプさえ持っていなかった。」と語っています。

衣装もそうですが、ロックバンドに必要不可欠なアンプすら彼らは持っておらず、他のバンドのものを借りていたのでは、とてもプロとはいえませんね。

ただ、ビートルズは、初日こそ褒められたできではなかったものの、次の6日間では何とか立て直しました。この辺りは、流石ですね。

ツアーの一行は翌日、150マイル北のインバネスに向かいました。地図で見ると分かりますが、かなり北部ですね。

 

4 ジョンがコンポーザーの片鱗(へんりん)を見せた!

ジョニー・ジェントルは、2日目のショーが終わった後、ジョンとジョージと同じホテルに宿泊して色々と話をしました。彼は、歌手でありながら自分で作詞作曲もしていたんですが、制作中の曲のミドルエイトがうまくいかないと打ち明けると、ジョンがこんな風にしてみたらとその場で歌詞とメロディーを提案したんです。

ジェントルは、生意気な青二才が何を言っているんだという気持ちでしたが、ジョンが聴かせてくれた歌詞とメロディーは、とても美しくて素晴らしかったのです。それで、彼は、それを採用して自分の曲「I've Just Fallen for Someone」を完成させました。つまり、ジョンは、図らずもこの時点でコンポーザーとしての才能があることを証明したんです。これは、特筆すべきできごとです。

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なので、この曲の「When~」から始まるミドルエイトは、ジョンの作詞作曲ということになります。人の作った曲を聴いて、すぐにそれにピッタリな歌詞とメロディーを思いつくなんて、もうこの頃から天才の片鱗(へんりん)を見せていたんですね。

しかし、彼は、ジェントルに著作権料も自分の名前をクレジットすることも要求しませんでした。というより、そんな権利があることすら認識していなかったんです。まだ学生でしたし、今みたいに情報が豊富に得られる時代ではありませんでしたから。

コンポーザーに著作権があるということがどれほど重要なことであるかを知らなかったばかりに、彼とポールは、後々まで苦しめられることになります。

5 誰もがスターになれるわけではない

 

ジェントルは、後にダレン・ヤングと改名して、1962年6月15日にこの曲をパーロフォン・レコードからシングル「My Tears Will Turn To Laughter」のB面としてリリースしました。残念ながら、3,000枚が売れただけでヒットチャートにも上がりませんでした。

ビートルズが「Love Me Do」でメジャー・デビューしたのは、その約4か月後の10月5日でした。ですから、たとえ一部とはいえ、ジョンが作詞作曲した曲が初めてレコードとしてリリースされたのは、ビートルズのメジャー・デビューよりも早かったのです。ジョンは、ビートルズのメジャー・デビューより先に、クレジットこそされなかったものの、コンポーザーとしてデビューしたことになります。

歴史とは皮肉なもので、レコード会社肝いりのミュージシャンは売れず、そのバックバンドを務めた無名のバンドがスーパースターになりました。これって芸能界あるあるで、日本でも外国でもそうですが、前座やバックバンドがメインよりずっと売れることがしばしばあるんですよね。

一行は、5月22日を休養日にし、23日にアバディーンシャイアのフレーザーバラで公演を行いました。車で移動したのですが、ビートルズは、ここであるトラブルに見舞われました。この続きは次回で。 

(参照文献)TUNE IN, THE BEATLES BIBLE, The Savage Young Beatles

(続く)

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