その翌日の金曜日、外は快晴だった。
桔平が見つかったという連絡はない。僕はいつも通り生徒が来る前に塾を開け、コンピューターを使って事務的な仕事をしていた。
まだまだ生徒達が来る時刻ではないので、いつも通りの静かな一人の時間が流れていた。その静寂は全くの不意に、そして乱暴に開かれた扉の音によって破られた。
僕はその音にかなり驚いたのだが、その来訪者にはもっと驚かされることとなった。
それは……、桔平だった。
呆気にとられた僕が、彼に声をかけるよりも先に
「すいませんでした!」
と、彼が深々と頭を下げて詫びてきた。落ち着きを取り戻した僕は
「いや……いいよ。とりあえず無事で良かった」
と答え、彼に話を聞こうとした。彼は彼で何かホッとしたような素振りを見せて、とりあえずのように、いつも彼が座っている席に腰掛けた。
「で……。どうしてた?今までどこで何をしてた?」
僕が尋ねると、彼は全く意味がわからないような顔をして、ただ僕を見つめてくる。
「いや……。この行方不明中、何してたん?そういやなんか電話がかかってくるとか、夜に廊下に女が立ってるとか、そんなんも言ってたよな」
僕は笑って聞いてみた。そう、僕は彼が無事だったことで安心しきっていたのだ。
「ああ……。あれはただ利用しようとして来ただけなんで大丈夫です。ほんとに怖いのは、そんな奴らじゃなくて、元々いた方です」
「…………は?」
(こいつ、何を言っているんだ……?)
完全に気が抜けていた僕を、再び不安が包み始めた。
「お前、何言ってんの?頭でも打ったんか?もう家には帰ったんか?」
と尋ねても、彼はまた不思議そうな顔をして
「塾長、何を言ってはるんですか?」
と問い返してくる。
「お前、先週から家に帰ってなくて、塾にも来てないやろ!」
焦りの為か、理解不能の事態ゆえか、僕の声色は、かなり強くなってしまっていた。そんな僕を前に桔平はどうしたらいいのかわからないような顔をして、
「塾長、何を言ってるんですか?僕は家にも帰ってるし、塾にも来てるじゃないですか……」
と丁寧に返してくる。自分の額に汗が滲むのがわかる。
僕を包む不安の色はどんどん濃くなってきた。彼は続ける。
「昨日だって塾に夏期講習の相談で来たじゃないですか。んで何かわからんけど、塾長の機嫌が悪かったのか、塾に入ってすぐに、怒鳴られて帰らされたでしょ。だから、とりあえず今日、謝りに来たんですよ!」
もちろん僕の記憶には、そんな出来事などない。不安は徐々に恐怖に変わり始めた。二通りの恐怖。桔平がおかしくなっているのか、あるいは僕が……。
「わかった。ちょっと待ってくれ……」
僕はまずは冷静になろうと努めた。つまり、彼が行方不明になっていたかどうかを証明できればいいのだ。
そう考えた僕の頭に、段のことが浮かんだ。彼とは明日、他の誰でもない、桔平の手掛かりを探す為にカミヤシキを訪れる約束をしているのだから……。
今日、彼はあと一時間足らずで塾にやって来る。
恐らく今は大学院からの帰路に着いているか、既に自宅に着いているはず。
つまり、今の時間なら連絡が取れるはずだ。そう考えた僕は自分の携帯電話を取って、段に連絡を取ろうとした。
段の携帯に繋がり、呼び出し音が鳴っている最中に、塾の固定電話が鳴った。習慣的に塾の業務を優先しようと、一度、携帯を切り、塾の電話に出る。すると
「もしもし、段ですけど。ちょっと話があるんですが……」
と聞きなれた声。
(段だ……!)
「段先生!良かった。とりあえず先に聞かせて欲しいことがあります!」
と、桔平の失踪、また翌日の約束について尋ねてみた。
「そんなこと、ありましたっけ?」
と、僕にとって信じられない返答だった。僕は頭を殴られたような衝撃を受け、何が現実で、何が妄想かわからなくなってしまった。電話の向こうからはまだ段が話を続けている。
「カミヤシキ~?何ですか?それ……。そんな所、僕が行くわけないじゃないですか。いくら誘われたって行きませんよ~。行きませんよ……、行きません……、行きません、行きません、行きません、行きません、行きません、行きません、行きません、行きません、行きません、行きません、行きません……」
段の声が、途中から無機質な機械音のように変わり始めた。それが「行きません」を何度も何度も連呼する。
異常な電話、異常な事態、それを異常であると認識できないほど僕は自分を見失い、混乱した。
無機質に繰り返される一文の朗読から、事務机の前で固まったままの僕の目を覚まさせたのは、僕の携帯電話の着信音だった。
脳に響く電子音は、混乱している僕の目を一瞬、携帯電話に向けさせることに成功した。携帯のディスプレイには、『段周馬』と表示されていた。とっさにその電話に出た僕は
「もしもし、段です。着信があったのでかけ直したんですが、どうしました?」
段の声に、さらに僕の混乱は酷くなった。前後矛盾で、恐らく意味不明なことを言っていたのであろう僕に、彼は
「まずは落ち着いてゆっくり話して下さい。先生、今塾にいるんですか?何が起こったか知らないですが、ちょっと心配なんで今から行きます」
と提案すると共に、意味の通らない僕の言葉の断片を組み合わせて、彼が理解できた内容は、桔平が今ここにいるということだったようだ。
「上田、見つかったんですね。とりあえず良かったです。これでカミヤシキに行く必要がなくなりましたね。今回は大丈夫ですよ。カミヤシキに行ったら、絵を消して下さいね。いつも掃除とかお世話になってるんで、その後のことは任せてください……」
と言い、電話を切ってしまった。その時には段が言った意味不明の言葉よりも、桔平見つかったんですね、カミヤシキに行く必要がなくなった、それらの言葉の方が僕に取って重要で、それが僕をほんの少し冷静にした。
(やはり、僕の記憶は正しい……のか……)
取り乱していた僕は、事務机の前で既に切れてしまっている固定電話の方を向いたままだった。そのとき、
「顔が……ないん……ですよ……ない……いい……」
と、桔平が座っているはずの僕の背後の位置から、弱々しい、かろうじて桔平のものと思われる奇怪な声がした。
今度は混乱ではなく、全身が鳥肌に覆われるような恐怖と共に振り返ったが、そこには誰もいなかった。
いなければならないはずの桔平も……。出入口は固定電話が置いてある事務机の正面で、誰かが出て行ったのなら、どんなに僕が混乱していたとしても気が付かないはずがない。
位置関係上、事務机から桔平が座っていた席が見えるのだが、その机の上に何かがあるのが見えた。机の上に無造作に置かれていた物は、十五センチ程の大きさで鳥居を思わせる朱一色で塗られた薄っぺらい人の形をした木の板だった。
(形代……か?ここにはさっき桔平がいた。いや、この形代が桔平の代わりをしていたのかも知れない)
僕は全身の力が抜けて、放心したように椅子に座っていた。不思議と恐怖はなかった。だがうるさいくらい耳に響く携帯電話の電子音が鬱陶しく、携帯電話に手を伸ばした時に、僕は自宅のベッドで目が覚めた。
(携帯の目覚ましのアラーム……。僕は悪夢を見ていたのか……)
汗だくで目覚めた僕は、今の生々しい夢を思い返すと、夢の中で段が言った妙な言葉が気にかかった。
「カミヤシキに行ったら、とりあえず絵を消して下さい」
(なんだこのセリフは……?)
最近の出来事からして、怖い夢を見るのはわかる。しかしこのセリフはなんなんだろう?絵を消せ……?僕は首を捻った。そうこうしている内に塾に行かなければならない時間が迫って来ていた。
(時間がない。用意しないと……)
結局、その時、それが何かはわからなかったのだが、僕には味方がいたのだ。強力極まりない味方が……。
続く……