その時、突然に段に抱きついていた異形の骸骨が、弾き飛ぶように後ろの通路の方に消え、その瞬間、段の動きも止まった。
僕は何が起こったのかわからなかった。
僕はまだ半泣きで、手にする物を投げまくっていたが、かろうじてそんな僕の目に入ったものは、段の足下に落ちている押入で拾った六地蔵の寺の御守りだった。
恐らくだが、それは僕が投げたのだ。これは後から思い出して考えたことだ。その時の僕に、冷静に考察するような余裕などがあるわけがない。
「先生!どうしたんですか!?大丈夫ですか!?」
と段が、僕の投げる木材も気にせずに走りよってくる。
元々、それは短距離だったので、僕は彼に怯える暇さえなかった。
段が正気に戻ったことを確認し、彼に背中を支えられ、ようやく立ち上がった僕の目は、骸骨が消えていった通路に釘付けだった。
この辺の記憶は曖昧で、段が何か言っていた様だが、ほとんど何も覚えていない。
記憶が曖昧な理由は、僕が極度の興奮状態だったことともう一つある。
僕は完全に他のことに気を取られていた。
その狭い廊下は真っ昼間なのに真っ暗、いや、まるでそこだけ墨汁で塗り潰したように……真っ黒だった。
なんとか自分で立てるようになった僕だが、脚の震えと、根付くように植え付けられた恐怖はおさまらない。
だが段は違った。
異常な僕を目の当たりにして、ある程度の恐怖を感じてはいるようだが、何があったのかを知らない彼は、僕よりも冷静で、まだ余裕がありそうだった。
彼は早くここから出るべきだ、とその黒い通路に向かおうとする。
後から確認したところ、彼の目には、その通路は来た時と変わらない通常の物に見えていたとのことだ。
だが僕はそんな真っ黒な通路に歩みを進める気にはなれなかった。僕にとってそれは全く別の……、例えるなら地獄へと繋がる穴に思えた。
(行けば必ず帰って来れなくなる)
通路へ進もうとする段を、部屋に引き留めているときに、ふと視線を外した彼は突然、
「先生……、外が……」
と震える声で呟いた。
段は僕が極度にその通路を進むことを嫌がるので、壊れた窓から出られないかと窓へ視線を向けた所だったらしい。
まだ僕は通路が気になっていたが、彼に腕を引かれて窓の方へ連れて行かれると、窓の外は真っ黄色の不吉な空が広がっていて……、何よりも異常なことに、そこにはだだっ広い荒れ地が広がっていた。
その生命を全く感じさせない荒廃した地にはたった一つ、寂しく細い川が流れていて、その畔に枯れ木が一本、そしてその枯れ木の下で奇妙な子ども逹が、異常に背の高い人を中心に円を描くように囲み、歌を歌いながら棒でつついたり、石を投げたりして回っていた。
(これはあの天井に書かれていた絵だ)
僕はそう直感した。その荒れ地にはそれ以外は何もなく、遠くには空の黄色と地のそれが融合したような、ひときわ濃い色の地平線が目に入るだけだった。
(一体何なんだ……これは?)
「窓の外には木しかなかった……はず……」
絶句した段を見て、逆に僕は自分がしっかりしなければ、とほんの少し冷静になれた。
しかし冷静になると先刻の骸骨が頭に浮かぶ。
通路の方を振り返るにはかなり勇気がいった。意を決して振り返れど、やはり通路は真っ黒のままだ。
が、ゆっくりと……
暗闇の奥から、蝋を思わせるような白い手が出て来ていた。
また先刻の恐怖が甦る。肉のついていない手……骨だ……。
脚が震え始めた。段の方を振り返ると、頭で整理しきれない事態に彼の頭もショートしたようで、放心状態のまま、窓の外を見ていた。
(しっかりしろ!)
と、僕は自分の膝を叩くが、ガクガクと震える脚に力が入らない。ふと、視界にオレンジ色の物体、床に落ちたままの御守りが目に入った。僕はそれを拾おうと手を伸ばしたが、脚が付いて来ずに前のめりに転んでしまった。
だが御守りを拾うことは出来た。
(で、どうする……?)
通路からは、破れ、汚れきった和服を来た骸骨が、上半身だけを出した状態のままこちらを見ている。
笑っているようにも思える。
どうしようもない、と僕が諦めかけた時、不意に段の、やけにのんびりとした声が聞こえた。
「先生……。僕、電話で何と言いましたっけ?」
それを聞いたとき、そんな余裕などないはずなのに、なぜか鮮明に頭にあることが浮かんだ。
(カミヤシキに行ったら、絵を消してくださいね)
たぶん僕にはもうそれしかやれることがなかったのだろう。
僕は這いずるように、外れて床に落ちたままになっている襖に向かい、手で絵を擦った。
だが全くそれが消える気配はない。
力任せに爪で引っ掻いた。二、三枚、指の爪が剥がれたが、痛みは感じなかった。
むしろ僕の血で絵が滲み始めた。結果的に僕は襖を破り、また血液で滲ませて絵を壊すことに成功した。
と同時に『シャン』という、精錬された金属が擦れ合うような音が部屋に響き、ジェットコースターに乗った時に感じるようなフワッとする感覚。
思わず振り向くと、恐るべきあの骸骨は消えていて、通路も正常、窓の外には繁茂する草木が見える。だが少しの間、僕は動けなかった。
何とか状況を整理して、放心状態の段の肩を強めに叩き
「大丈夫ですか?たぶん……もう大丈夫ですよ」
と声を掛けると
「あ……ああ……」
と今、正気を取り戻したように、彼は周りを見回した。僕も疲れで倒れそうだったが、爪を剥がした両指の痛みがよい気付けになり、また同時にあれが夢ではなかったとも実感した。
もう日が傾き始めている。結局、何も解決しないまま逃げるように僕らは各々の家路に着いたのだが、なんと家に到着したのは、僕らがカミヤシキに出向いた日の翌日、日曜日だった。
つまり僕らは丸一日、あの屋敷にいたことになる。どう考えてもそんな記憶はないのだが……。