「ひっ!!」


 その見るもおぞましい醜悪な姿に僕は息を飲み後退りした。


「へへ……、お前を……守る……、へへへ……アレは……なくなった……」


 自分の目の前で、下婢た笑いを続ける、非現実的かつ圧倒的な恐怖の前で、


(アレって何だ!?御守りか……!?)


 と、混乱、恐慌状態の僕は、咄嗟に夢と現実が交差し、そんな答えに辿り着くと同時に、夢の中で僕は現在の自分……、大人の僕に成り変わる。

 

そうこうしている間に、その化物は鉄棒から、べちゃっという嫌な音と共に、下の地面に落ちた。


(こっちに来る……!)


 僕の足は、意思とは別の……、そう、人の反射運動に似た反応で走り始める。と、すぐ後ろから


「ハカバ……が来る……。へへ……ハカバが来る。げへへへ……」


(ハカバ……?墓場のことか……?)


ぞっとした。

 

確実性を持って、人に恐怖を与えるだろう耳元で囁かれる意味不明の言葉。

 

走りながら僕は体中に鳥肌を感じ、震え、もつれる両足に力を入れ、


(ついてくる……!逃げないと……!)


 と、半狂乱のまま走った。すぐに現実の知識、記憶が一気に夢の僕の頭に流れ込んだが、この化物を『さがり女』だと認識するまでには時間が必要だった。

 

それを『さがり女』だと認識すると同時に、混乱極まる僕の頭に、辛うじて浮かんだ二つのこと。まず一つ目、


(こいつは『さがり女』じゃない。『さがり男』だ。皆がこの長い髪を見て誤解したんだ)


 それを目の当たりにした僕には、その野太い声、言葉使いからして、それが女だとは思えなかった。二つ目、


(こいつは……ついて来ているのでは……ない……)


 『さがり女に背を向けてはいけない』


 この非常時の中、七不思議の一節が頭にこだまする。


(既に……僕の背に……)

 

 走りながら、背中を払うようにもがいたが、無駄だった。

 

「へへへ……。墓場……が来る……。墓場が来るぞー!」


 ソレは僕の背で、地の底から響くような低い声で叫ぶ。


(意味がわからないのに、何て恐ろしい響きなんだ……)


 耳にするたびに寿命が縮むような……、精神に有害性を持つ呪いの文句を耳にしながら、僕は走った。

 

ふと少し離れた場所に、この黄色い世界とは、うって変わったような光が見えたような気がした。

 

僕は最初、それが何かわからなかったが、必然的にそちらに足が向く。それは校門だった。校門の向こう側は、黄色い光に照らされたセピア色のこちら側とは異なり、光り、色付き、生命に溢れているように見えだ。


(あれは現実の世界!?あともう少し、現実に戻りさえすれば、すぐ手元に御守りが………

 

ない!そうだ……、予備も含めて全て彼に渡してしまったんだった……)


 そんな状況の中、


(ひょっとして……カナコは僕から御守りを奪う為に……、生徒にあんなことを言ったのか……?)


 否定的な考えが頭に浮かんだが、それでも絶望に苛まれずに


(夢から覚めさえすれば、僕は直接、六地蔵の寺にも行ける。それ以外にも仲間がいるんだ……!)


 と、肯定的な考えに転換が出来たのは、昔から数多くの怪異に遭遇してきた慣れに近いものなのだろうか?そんな全ての肯定的な考えを打ち消すかの如く、


「はーっはっ墓場が来るぞー!いーっひーひっひ……墓場、墓場が……」


 既に囁き声でもなくなったそれは、高らかに、しかし不気味に笑っているように思えた。心を蝕む有毒な言葉を耳にしながらも、校門前、救いの出口まで来ると、気が緩むものだ。


(逃げ切った……)


 僕が校門から出ようと、走るスピードを上げようとしたとき、どこからか


「そっちじゃないって言ってるでしょ!!」


 悪魔の囁きに割って入る、耳が潰れるのではないかと思う程の大音量の少女の声、僕の目は強烈なライトをあてられたように、一瞬、真っ白になった。

 

次の瞬間、僕は目を疑った。

 

今まで現実への出口のように見えていた校門の向こう側には、恐らく古い時代、土葬された古墓がチラホラと並ぶ、疎らに草の茂るだけの枯れ果てた土地が広がっていた。その奥に墨汁のような真っ黒い巨大な池まで見える。


(墓……?)


 急激な激しい運動のせいなのか、その不気味な光景に有害性があったのか、急に僕は吐き気を催し、口を押さえた。えづきながら涙目で周りを見ても、例の少女の姿はない。先刻のフラッシュと共に、僕の背に取り憑いた悪魔の気配も消えたようだが、全く安心は出来ない。


(この……門からは出られない……)


 僕はもう一度、踵を返し、不吉なセピア色の校舎を見たが、


(一体どこに行けばいいんだ!?ぐずぐずしていたら、またアイツが……)


 頭に半ば絶望という二文字が見え始めた頃、


『どこに行けばいいって!?あの部屋よ』


 突然、僕の頭に過去の夢の記憶が浮かんだ。元々、出口の当てもなく、見知らぬ校舎、僕の足は……、唯一、夢で見たことがある場所へ……向いた。

 

 

夢の中なのに、なぜにこれほど疲れるのだろう。また恐怖からくる緊張感は、文字通り僕の足をすくませるには十分で、その時の僕は何よりも、物陰や、曲がり角が恐ろしかった。

 

しんとした校舎の中、寿命をすり減らしながら自分の足に鞭打って、途中からアスファルトに変わった坂道を登り、あの時、少女と共に見た校舎の二階の部屋を視認した……。はぁはぁと息づく僕は、坂の下方、今、自分が来た方向から


「墓……場が……来るー!ひーっひっひ。墓場が来るー!」


 遠く聞こえる野太い叫び声に、再び戦慄した。疲れを感じている暇などない。僕は誰もいない、寂しい校舎の階段に自分の足音を忙しく響かせ、二階の、夢で見たあの教室の前まで辿り着いた。


『図工室』


 ネームプレートにはそう記載されており、その引き戸は半分だけ開いたままになっていた。僕は乱暴にその扉を開こうとしたが、それは半開きのままびくともしなかったので、まるで弾かれたように僕はのけぞった。

 

(何だ……?)

 

と思う暇もなく


『ゾリゾリゾリゾリ』


 恐るべき速さで、何かを引きずるような不快な音が、吹き抜けの廊下を通して、外の下方から聞こえる。

 

その正体を見る勇気などない。

 

だが、そのとき僕の頭に浮かんだ映像は、上半身だけのアレが自分を引きずりながら、すごいスピードでアスファルトの坂を上って来ている、有名な都市伝説『テケテケ』を思わせるような地獄絵図だ。

 

恐怖で両肩を持ち上げられるような感覚と共に、僕は半開きのまま動かない扉に、自分を押し込むようにして、その図工室の中に入った。


「墓場が……来るぞ!!」


 教室の窓ガラスが震えるような大声が、廊下に響いた。


(ああ……、もう、すぐ外の廊下にまで……来ている……)


 部屋に入るには入ったが、どうしたらよいかわからない僕は、半ばやけになって、隠れる場所を探そうと周りを見回した。

 

すると部屋の中にやたらと闇の濃い場所、また何かが光っている場所、そんな二つの場所があることに気が付いた。当然のように……僕は光を出す物の方へ向かう。


(これは……)


 それは無骨な分厚い木で作られた机の上にあった。


(そう言えば……あいつは夢で……)


 『キュキュ……、キュキュ……』


廊下から妙な音が聞こえる。それはもうかなり近い。


(置いたって……言ってた……)


 『ベシャ』


 入口のドアに何かが当たる音がした。緊張と共に背筋が凍った。だが……、僕には出来ることがあった。

 

 

飾り気のない無骨な机の上に無造作に置かれた、この世界で唯一輝く六地蔵の御守りを両手で強く握りしめ、


(これで駄目なら……諦めもつく……)


 覚悟を決めてそのドアを睨み付けた。半開きのドアの上部、重力を無視して引っ掛かるように覗いた腐った顔が


「墓場が」


 と怒鳴ると同時に、僕は


「来ない!」


 と、気合とともに怒鳴り返した。精一杯虚勢を張った僕を見てか、あるはずのない僕を守るもの、六地蔵の御守りを見てか、不自然にドアの上部にぶら下がったまま、化物の動きが止まる。

 


「こっち。これを叩き落として!」


 唐突に少女の声がして、そちらを向くと、そこは先刻、闇が濃いと表現した場所だった。その中心には、長く黒い布を掛けられた何かが、鉄製の台の上に乗っている。僕はそれに体当たりをするようにぶつかり、布ごとそれを落とすことに成功した。


 『ゴキッ』


布の中で何か固い物が砕ける音。その上から鉄の台が落ち、その台の上に体勢を崩した僕が落ちた。メキメキッといった感触と共に、


「ギェエエエ!」


 と、扉の方から断末魔の悲鳴のような凄まじい叫び声。そして訪れた突然の静寂が僕を包み込んだ。

 

僕はしばらく興奮状態のまま、扉に目が釘付けだったが、ふと気が付けば、教室の窓から赤い夕日が射し込んでいた。

 

もうかなり日が傾いてきたようだ。

 

「ありがとう。お陰で助かったわ」


不意に部屋の隅から声を掛けられて、僕は驚いたが、すぐに気を取り直し、窓際に少女の姿を確認した。