政権批判への北風 「他人の自由はリスク、自分の自由は負担」の心理

有料記事多事奏論

編集委員 高橋純子
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記者コラム「多事奏論」 高橋純子

 立憲民主党代表選の報道をながめているうちにふと、作家・武田泰淳の妻、武田百合子が40年ほど前に著したエッセーを思い出した。カツ丼、うな重、幕の内などを供する飲食店で人生初のアルバイトをし、戻ってきた出前弁当のお重に残されたご飯をヘラで落とす係になった時の回想だ。

 蓋(ふた)をとったとき、一番いい感じなのは、食べ滓(かす)とかビニールの笹(ささ)などはすっかり取り除いてあるけれど洗ってない、――糊(のり)状のものが、うっすらと、一面にささくれたままのお重です。礼儀正しくきれいに洗い上げられて戻ってくるお重もありますが、いくら舐(な)めるように洗ってあるからといって、洗わないで済ませるわけにはいかず、やっぱりもう一度洗うのですから、その礼儀正しさと思いやりは、私には却(かえ)ってムダでうっとうしいものに感じられます。(「誠実亭」)

 さすが武田百合子、えも言われぬ感情をさらりと描出する。とはいえじゃあ、洗わず戻すよう皆がすべきかというと、それは違うはずだ。衛生面に気を配る。洗い場に立つ人の身になる。自分で出来ることは自分でやる……それぞれよき心がけであり、やめろというのはやはり筋を違えている。

 当世において政権批判をするひとびともまさに「却ってムダでうっとうしい」と目されているが、だから批判を控えよというのはこれまた妙ちきりんなことである。森友・加計学園問題とか桜を見る会とか日本学術会議の任命拒否とか、汚れたお重が積み上がっている。洗おうとしたり洗わせようとしたりするのは当然で、それを無視して「これからの季節はフグだね」なんて新メニューの開発に邁進(まいしん)している方がどうかしてる。批判するだろ、そりゃ。

 政権批判への冷ややかな視線…

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