本当の意味でニュートラルな自分になる |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

今朝、いつものようにジョギングしていると……

いつも行く熊野神社側で、いきなり左脚側面のふくらはぎの上の方に、

ビリリッ!!

という感覚が。

 

あ、やられたと思いました。

 

そう、スズメバチに刺されたのです。

もうしっかり、ぐっさりと。

短パンですから、生身のところを刺された。

どうも、参道横の桜の木の古い切り株のあたりに執着しているので、腐った木の中に巣でも作ろうとしている? 作っている?

 

やべーな。

前にも軽く刺されたことがあるので、アナフィラキシー・ショックとか出てきたら……

とはいえ、走らないと帰れない。

ショック症状が出るのなら、わりとすぐのはず。

 

たぶん、大丈夫……?

しかし、痛い。

メッチャ痛い。

一足ごとにビリビリくる。

 

そう思いながら、朝早い時刻で申し訳なかったのですが、熊野神社の宮司さんに電話しました。

(前から知り合い)

他の参拝者が刺される可能性もあるので、駆除を依頼しました。

 

しかし、山の中の旧宅で、昨日、道路に出ている木の枝を切り落としたりしたのに、そういうところでならわかるのですが、町に出てきて、こんなところで……

 

ホロスコープを見ると……

 

 

この記事で書いている、6月24日のお昼ご飯を作っているときに火傷したのと、きわめて類似したパターンで、火星と土星が刺激されている。

まあ、針とかスズメバチに刺されるとかいうのも、基本的には火星的事件。

くそー。

 

皆さんもお気をつけ下さいね。

あ、その後、皮膚科へ行き、蜂の針が残っていないことは確認してもらいましたし、塗り薬を出してもらいました。

まだ、結構、痛いけどねー

 

 

  ニュートラルな状態について

 

昨日のインスピレーションの続き。

 

 

インスピレーションはニュートラルな状態でないと、良い形で受け取れない、というお話だったのですが。

この〝ニュートラル〟って何だと思われるかたもいるはず。

 

昨日の記事をお読み頂くとお分かりいただけると思いますが、個人的なエゴが干渉しない状態です。

自分の思惑とか願望とか、思い込みとかが入らない。

 

もうずいぶん前ですが、私の鑑定を「ニュートラルだ」と評してくださったお客様がいます。

これは私の個人的な考えでの「結論ありき」ではなく、お客様と向き合っていく中で、偏らない見方をしやすいからと思われます。

 

ただ、誤解されやすいのは、

「なるほど、自分がない方がいいんだな」

「自分の観念や願望を捨て去って、心を空っぽにするという感じか」

「その時に降りてきたインスピレーションがいいってことだよな」

という三段論法だと、ドツボにはまる可能性があります。

 

確かにそうとは言えるのですが、

インスピレーションって、いろんなところから降りてきます。

こういったものが、

かならず私たちを良いほうへ導く集合意識から降ろされているとは、

断言できない

という問題があるのです。

 

私はかつて霊能力を持つ人が、(今にして思えば)かなり危ういところと〝通信〟して、そこからのメッセージを降ろしているのを目の当たりにしたこともありますし。

そういうスピリチュアルな人でなくても、

ある状態、ある思想、ある価値観に凝り固まっている人は、そもそもそういう集合意識と接触して生きているわけで、その人の得る「これだ!」というインスピレーションは、どうしてもその系統のものになりがちなのです。

 

わかりやすくいうと、

ガチガチの共産思想の人が得る「こうすれば世の中が良くなるんだ!」というインスピレーションは、やはり共産主義路線のものになりやすいのが当たり前。

ガチガチの右翼の人の場合も、その人の信じる路線で。

今話題の宗教が一番わかりやすく、その教えに染まっていると、インスピレーションもその教えの中に留まりやすい。

宗教の場合、その本質(本来)が崇高なものであっても、現世的に組織化された段階で、もういろいろな思惑がいろんなルールや観念を別に作りやすい。

 

ある主義や思想、宗教、戒律、常識、観念などを持つ人は、一見すごく〝芯〟がある人に思えるかも知れないのですが。

これ、真実は逆!

 

自分をそういった集合意識(霊的勢力)に売り渡している、あるいは依存しているからこそ、凝り固まっている。

 

私は別に特定の宗教がダメとか、そういうことを言いたいわけではないです。

キリスト教であろうとイスラム教であろうと、仏教でも神道でも、

他への愛や尊敬、調和の本質に立ち返るのであれば、それでいいはず。

他の宗教や理念を否定している段階で、もう本質から外れているので、そこは判断基準になると思います。

 

ニュートラルな感覚というのは、自分がないかのような状態ですが、

それはつまりこういった個人エゴの価値判断、固定観念をきれいにしている状態です。

これは他者や隣人、誰かに対して深い尊敬や愛を抱いている状態で、

同時に他者を否定しない状態でもあります。

 

このときに、私たちの中には、本当の意味での〝芯〟が形成されます。

 

この〝芯〟がない状態では、心を空っぽにできても、その人が依存している集合意識のインスピレーションが降りて来るだけかも知れない。

本当に良いメッセージも、きっとあるはずです。

その人に助力し、良き方向へ導こうとしている、いわゆる天使とか菩薩とか如来とか、なんかそういう表現をされるような霊的な存在とか集合意識があるはずなので。

でも、何かに自分を売り渡していると、そうでない雑音も混じってくる。

 

わりと、人は〝自分の信じたい情報だけを取捨選択しやすい〟のです。

 

ですから、本当に突き詰めれば、

その人自身がまず、自分を他の存在に売り渡さない、依存しない、という〝芯〟を持つ必要があり、その上で、エゴや先入観のないコンディションを作り出してインスピレーションを受け取る、

というような状態が、真のニュートラルな状態、といえるのかと思います。

 

難しいとお考えになる人は、まずは自分が依存している価値観、人生観などについて考えてみたらいいでしょう。

それは社会が植え付けたものもあれば、親から植え付けられたものもあるでしょう。

もちろん宗教観なども多い。

 

よく〝手放すこと〟の重要性が説かれますが、それはまさにこの第一のプロセス。

自分がとらわれているものから自由になって、まずは自分を取り戻すこと。

取り戻そうと思う過程で、「アレがダメだったから、今度はコレ」ではなく、

ただ自分になること。

 

依存対象を変えるのではなく、素の自分になる。

 

こういうことね!

 

 

この星のカードには、裸の自分がいます。

ここには、素の自分があり、「女帝」のような着飾った自分の願いではなく、もともとの素直な自分の願いがあります。

そして他を尊ぶ謙譲の姿勢を取り、尽きることのない水を注いでいます。

 

 

 

 

ポチしてくださると、とても励みになります。(^人^)

     ↓


人気ブログランキング