●ある日陰の女・ストリッパー。




1941年(昭和16年)5月7日、

東京都台東区稲荷町に、一人の男の子が生まれた。

父親は、カメラの製造販売をして成功。浦和に一軒家を立て、

少年時代は比較的裕福な家庭だった。



しかし、父は都内に(めかけ)を囲っており、(浮気)

彼の家には週末しか帰って来なかったという。

1952年、彼が小学5年の時、そんな父の会社が倒産した。

家には借金取りが連日押し寄せてきた。

彼は小さいながらも、ショックで涙が絶えなかったという。

家族は家を取られ、再び生まれた地・稲荷町に戻った。

しかし、食べるのにも苦労する極貧生活

家賃も払えなくなり、一家で夜逃げした。

その後、家族は解散。

彼は中学卒業と同時に芸人を目指し浅草に行く。

喜劇役者・大宮敏充の元へ弟子入りを請うが、

「せめて高校を出てからおいで」と断られた。

駒込高校卒業後、浅草公園六区にあった東洋劇場に入団。

研究生としてコメディアンの卵となった。

しかし、極度のあがり症で、セリフが上手く言えず、

演出家から、

「君は才能がないからやめたほうがいい。

 はっきり言って、あんたはコメディアンには向いていないと思う。」

 

彼の胸にきつく突き刺さる言葉だった。

確かに、自分はすぐにあがってしまいセリフも言えず、

踊りも踊れず、笑いもとれない。



「分かりました。 

 自分でも無理のような気がします。

 今月いっぱいで辞めることにします。」

誰もいない二階の楽屋に戻ると、下を向いてうなだれた。


そんな時だった。先輩の池信一さんが、

「どうしたんだよ、何をしょげているんだ?」


「すいません、辞めることになりました。

 さっき、演出家の先生に、コメディアンには向いていないから

 

 辞めたほうがいいって言われて、

 

 はい。分かりました。って返事しちゃったんです。」



「えっ!?

 3ヶ月しかやらないで、もう結論を出したのか?

 おまえ自身の気持ちはどうなんだ?

 やりたいのか、やりたくないのか?」




「できたらもうちょっと… 」



「そうか、本当は、おまえ、まだ辞めたくないんだな。

 よし、ここで待ってろよ!」


すると、池先輩はしばらくして戻って来て、彼にこう言った。


「大丈夫だから、おまえは続けてろ!」


のちに、演出家の先生に当時の事を聞くと、

池先輩は、彼の為に交渉してくれたという。

「お前の先輩がオレの所に来て、こう言ったよ。」




「あいつは不器用で気が小さいし、

 面白くもないし、才能もないかもしれない。
 
 けれど、今どきあんなにいい返事をする子はいなんです。

 あの返事だけでここにおいてやってくれってな。」


「この世界で大事なのは、うまいへたじゃない。

 おまえのようなダメな奴を、

 辞めさせないでと言ってくれる人がいる。 
それが大事なんだ。

 一人でも応援してくれる人がいれば、やっていける。

 ずっとやってろ、一生、辞めるんじゃないぞ!」




涙が止まらなかった。

心の底から泣けた。

池先輩、ありがとう。




その後彼は、奮起し、誰も居ない劇場で早朝に大声を出す練習をしたり、

先輩芸人の真似を何度も繰り返して芸を磨いた。

そして、やっとコントが出来る様になった時だった。

今度は、父親の家が火事になったのだ。

彼は父親を助ける為に、コメディアンになる事をあきらめた。






しかし、それを聞いた池先輩が、

劇場の関係者からカンパを募り約60万円を彼に渡したのだった。

これには、彼も感極まって号泣し、

コメディアンを一生続けていくことを決意したのだった。


やっとコントが出来る様になると、系列の浅草フランス座へ出向した。

 

浅草フランス座とは、ストリップ小屋である。

 

女性が踊ったり脱いだりするストリップショーの幕間に

 

コントを披露する仕事だった。

コントが出来ると言っても、お客さんの目的はストリップ嬢を見る為であって、

コントを熱心に見てくれるお客などいなかった。

ストリップの踊り子の着替えや次のショーへの時間稼ぎの為だけだった。

給料も少なく、芸もなかなか上達しなかった。


しかし、そんな彼を、一人の3歳年上のストリッパーが常に応援してくれていた。

「あんた、素質あるんだから、がんばってね。

 

 

彼女も家庭の事情で18歳からこの世界に身を投じていた。

 

 

彼は、いつしか彼女の事が特別な存在となり、二人は同棲を始めた。



売れない彼に代わって、彼女が生活を支えた。

 



家賃を払ってあげ、

テレビが無い彼に、

今どきの芸人はテレビくらい見なくちゃダメ」と、

テレビを買ってあげ、冷蔵庫も買ってあげたという。

3歳年上のストリッパーの彼女は、彼が立派なコメディアンになれる様にと、

全てに協力してくれたのだった。







そんな時だった。

偶然麻雀のメンツが足りないと、

先輩の芸人だった・坂上が電話してきたのである。

とりあえず、1回だけコンビを組んでコントを披露した。

すると、支配人から、次もやってくれ。と、

何でもいいからコンビの名前をつけて欲しいと言われた。

しかし、

「いや、僕たちはすぐに解散するんで、コンビ名なんてつけません。

と言い張ったのだが、支配人は、それではこっちが困るといい、

当時、野球でジャイアンツの王貞治さんが、

 

55号のホームラン記録を出したので、

 

 

 

 

 

 

 

 

 



適当に「コント55号」と名付けられてしまった。


ところが、翌年の日劇の「西田佐知子ショー」に

コメディーリリーフとして出演されると、

段取りなど関係なく、二人して暴れまくるコントが斬新と人気を得て、

「コント55号」はアイドル並に引っ張りだこになり、

 

国民の絶大な人気を得たのである。



萩本欽一の苦しい時代を支えてくれた3歳年上のストリッパーの彼女は、

テレビの仕事で忙しくなった欽ちゃんの姿を見て、

ひっそりと、身を引いた。

私みたいな、年上のストリッパーが彼女だったと分かったら、

きっとスキャンダルになる。欽ちゃんがせっかく売れ始めたのに。

私なんかがいたら・・・


彼女は、欽ちゃんの元から姿を消した。





大ブレークした「コント55号」は、大スターとなり、

もはや、萩本欽一と結婚したいという女性は、沢山いた
という。




しかし、萩本欽一は、テレビの撮影の合間や地方公演のちょっとした合間に、

時間を作り、あの年上のストリッパーを必死に探し続けた。

 

日本中を探し回った。

 






そして、とうとう見つけ出すと、

結婚を申し込んだのである。

しかし、彼女は断った。

「私なんかと結婚したら、世間が何を言うか分からない。

 私みたいなものと・・・・・








でも、萩本欽一さんは、あきらめなかった。

1976年7月5日夜のこと、萩本欽一さん絶好調期の35歳、

いきなり記者会見を開いた。

会見場のレストランは詰めかけた記者たちであふれ返っている。



萩本さんは開口一番

ボク結婚しちゃったの」と報告…

しかも7カ月になる男の子もいるという爆弾発言をしたのです。


引退覚悟で結婚を発表したのである。

大スターの大スキャンダル隠し子発覚である。









しかし、会見では拍手が起こったのである。

スキャンダル発覚で、拍手が起きたのは初めての事だった。

報道でもほとんどが「13年愛を実らせて欽ちゃんが結婚」と

 

好意的に伝えたのです。

実は、萩本さんが一途に思い続けてきた事を記者達も分かっていたのです。







その後、彼女も欽ちゃんの覚悟をしり、結婚。

3人の子供に恵まれた。




END
 

 

参考:『ウィキペディア(Wikipedia)』
リオカワの雑記帳 https://ameblo.jp/riokawa3/entry-12296737948.html
「爆報!THEフライデー」
一人でも応援してくれる人がいれば hiroーsan https://ameblo.jp/hiroo117/entry-11279033802.html
Gossip History https://gossip-history.com/g00116/